自分たちはもっと「押しが強く、積極的」であらねばならない、「決断力」「リーダーシップ」を持ち、「能動的」な性格になってゆかねばならない。
「内気」「従順」「控えめ」「周りの目を気にする」自分は嫌いだと。
積極的な自分になり、自分をもっと評価し、自信力のある人間になりたいという願いが、さまざまな形となって表れていると見てよい。
こう考えた時、教員が黒板の前に立ち、書き、話し、学生はノートを取るという形式での授業は、もはや学生が学びたいものを供与することにならないのではないか。
大学は何かを教える場としてよりも、「話し合う場」「何かをつくる場」「成果を残す場」として方向を変えてゆく必要があるのではないだろうか。
新しい場の提供者として、教員は学生にアドバイスを与え、ともに考える存在になってゆく必要があるだろう。
資格試験に合格してゆくための学校、英会話などの専修学校の教員は、大学の教員より教え方がうまいとよく言われる。
学生たちに聞くと、資格取得学校の教員は覚えなければならない知識を楽しく、効率よく覚える方法を教えてくれるという。
大学教員は訓練を受けていないので、必ずしもそうしたスキルに長けてはいないし、さらに重要なことに、そうしたスキルを発揮することが役割でもない。
大学教員の役割は、「話し合う場」「何かをつくる場」「成果を残す場」を提供することによって次代の若者を育成していくことにあるのではないのか。
教員は、学生たちに不足している力−たとえば情報分析力、あるデータから結論を導き出す力、情報量自体が少ないことなどを補い、指摘しながら、彼らには今まで見えていなかったものを自ら発見することを助けるのだ。
学生たちは自分の弱点に向き合い、複眼的な視点があることを知り、そこで自分は成長した・変われたと実感できる。
自分は成長した・変われたということを実感して、自信をつける。
そのような場を提供していくことが大学教員の役割である。
学生参加型授業を学生は望んでいることがわかったが、発言したいけれどしない、あるいはできない学生が多い。
学生たちは実際に授業中どのくらいの頻度で発言をしているのだろうか。
つまり教員が間違ったことを言った時に指摘するかどうかの質問には、8割が「めったにしない」「全然しない」。
間違っていると思っても、表明できない雰囲気があるのだろう。
中学、高校で1方通行の授業に慣れてしまい、大学へ入って急に発言をするには大変な勇気を必要とすることも事実だ。
それほどまでに、日本の学生たちは発言の訓練を受けていない。
だから質問するように、活発に意見を述べるようにと、教員が促しただけでは学生は動かないし、クラスの雰囲気は何も変わらない。
では発言を促しても駄目なら、授業担当者は何をすればよいのか。
学生が教員に望むのは涼が語ったように、「学生が発言しやすい雰囲気をつくる」ことである。
学生が発言しやすい雰囲気がなぜ大切なのか、詳しい説明をしたのはC景である。
C景が言わんとしていることは、学生同士が孤立していると、学生は発言しないということである。
学生同士が孤立する授業とは、授業の中で教員が1方的に学生に向かっているだけで、学生から教員への、また学生同士の間に信頼感や安心感が成立していない状況である。
そのようなクラスは緊張感に満ち、学生はあえて口を開かないということだ。
「先生が『教えてやる』という態度だとどうしてもクラスは緊張感に満ち、みんなが硬くなっているだけで、興味を持たないまま授業が終わることが多い」とC景は指摘している。
確かに筆者の経験からも、いたずらに緊張した雰囲気の中では、学生も教員も頭脳が柔軟に働かないように思う。
重要なことは、クラスのサイズだけではないということだ。
たとえばKが語ったように、少人数のゼミ形式だから発言しやすいとは限らない。
高度なレベルのものを輪読して順々に発表するという形式だったが、「発表する人以外は皆、発言したがりません」と言う。
せっかく少人数でゼミをしていても、学生の連帯が生まれないと、活発なやり取りは行われないままみんなで黙っているということになってしまうのだ。
学生同士の連帯が生まれているよい授業例が、インタビューAの証言である。
Aの説明で学生たちがいそいそとプレゼンの準備をしている様子が伝わってくる。
「他のグループからの『パクリ』に遭わないように、グループメンバーが団結して〈秘密保持〉で頑張ります。
たまにはファミレスでプレゼンの案を徹夜で練ったり、練習したりします」と言っている。
またA子もグループ内での協力が、いかに学生の互いの知力を活性化させるか、その知的刺激を受けて、いかに「成長する授業」となっているかを語っている。
こうした授業は学生たちとって、まさに「話し合う場」「何かをつくる場」「成果を残す場」になっている。
可能にするために授業のテーマや目標を設定し、方向の舵取りをする〈レガッタのコックス〉の努力がある。
また自信力構築の観点から言うなら、M加子が、共同研究から得たものは何物にも代えがたい価値があると語っている。
自分1人ではネガティブ思考に陥りやすいが、共同研究をしている他の人ちから、悩んでいることは不安を大きくすることであり、行き詰まった時には特に「動きながら考える」ということを学んだ。
このようにして、学生たちは共同で作業をすることによって、教員が教えることができないものを会得してゆく。
学生たちが「授業で学ぶ」ということをどのように考えているのか、その本心を今まで見て来た。
1般に考えられているよりも、ずっとまじめで、ずっと積極的な気持ちを持っていることが理解できたと思う。
課題の量が全体として少なく、〈学生たちは課題をもっと増やしてよい〉と考えていること、7割の学生が課題をだいたいやってゆく現状を報告した。
ここでは厳しい課題に学生が取り組んだ結果、学生がいかに生き生きするかを紹介したい。
筆者の知る、ある教員が学期の終わりに自分の授業評価を学生に頼んだところ、以下のような記述回答があったという。
学生は〈凝った〉表現をしているがその真意を読み取ってほしい。
つらい。
正直課題がつらすぎる。
本当にもう、いつ授業出るのをやめようか思っていました。
最後までちゃんと出て課題も出した自分をほめてあげたいぐらいです。
10単位ぐらいほしいです。
来年の統計学は先生には当たりたくないです。
ようやく終わって嬉しい。
フルマラソン42.195mを走りきった気分。
しかも心臓破りの坂があるフルマラソン。
書いた学生は、自分が学期を通して授業をやりぬいたことを心の底から幸福に思っている。
チャレンジしたことが困難であればあるほど、その達成感も大きいという典型例であろう。
筆者はレガッタの比喩を使ったが、彼女はマラソンの比喩を使っている。
自分で漕ぎ、自分で全力疾走する快感だ。
学生たちはやりがいのある課題に取り組むと、やる気満々になる。
リカは中小企業と地域活性化についての課題で、「社会に飛び出して勉強できる楽しさ」を知ったと言っている。
「〈中小企業〉というテーマを超えて、公共事業のあり方について考え、経済の仕組みについて学んだ」という充実感を持っている。
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